本当に日本には死刑は必要なの?
「シンポジウムいのちの意味を考える 死刑制度に関する欧州とアジアの視点」 における 発言要旨~NGOの立場から死刑を支える「世論」を考える 田鎖麻衣子弁護士
2009年12月2日に開催されたンポジウム「いのちの意味を考える 死刑制度に関する欧州とアジアの視点」駐日欧州委員会代表部(EU)、スウェーデン大使館、EUIJ早稲田(早稲田学)・共催
における、NPO 監獄人権センター事務局長 田鎖麻衣子弁護士の発言要旨です
日本政府が、死刑制度を維持する理由として、いちばんに挙げることは「世論」です。「日本人の大多数は、きわめて悪質な犯罪については死刑もやむを得ないと考えている。大量殺人や誘拐殺人といった凶悪犯罪がいまだに後を絶たない状況等をかんがみると死刑もやむを得ず、死刑廃止は適切でない」というのです。「世論」という流動的な要素を第一に掲げながら、「凶悪犯罪が後を絶たない」と付け加えることによって、死刑存続の立場を正当化しています。
しかし「世論」が依拠しているのは、間違いだらけの常識です。その最たるものが、凶悪犯罪は増え続けている、死刑にはそれを抑止する力がある、ゆえに死刑の廃止は凶悪犯罪のさらなる増加につながる、というものです。マスコミはもちろん、法務省の官僚すなわち検察官、裁判官や弁護士も、さらには死刑に反対の立場をとる少数派の市民すらも、ほとんどが同じ間違いを前提にしています。しかし、日本において凶悪犯罪の増加という事実はありません。犯罪によって亡くなる人の数は、減り続けています。この減少は、死刑執行の有無や、数の増減とはまったく関係なく、一貫したものです。なぜこのように完全に誤った常識がいまだに蔓延しているのか。それは、死刑に関する正確で具体的な情報が、隠されているからです。法務省は、鳩山邦夫・元法務大臣によって情報開示が進んだと強調します。しかし、オープンにされたのは、氷山の一角です。なぜ、今回、この人が執行されたのか、執行に至る手続き、執行の具体的な要素など、基本的な情報は隠されたままです。その結果、かえって「こんなに凶悪な罪を犯した者を執行した」という事実が強調されるようになりました。政府による完全な情報操作です。どこかの独裁国家と大差がありません。しかも、情報の欠如は、犯罪や刑罰全般についてもあてはまります。
情報がないために、死刑をめぐる議論は、しばしば、極めて抽象的で空疎なものに終始してしまいます。「人の命を奪ってしまったのだから、死刑はやむを得ない」「極めて残虐な犯罪に対しては、死刑をもって臨むしかない」。しかし、殺人事件のうち、死刑となるのはほんの一部です。また「極めて残虐な犯罪」といっても、具体的な事件に直面したとき、死刑を科すべきかどうかの判断は容易ではありません。たとえばアメリカ合衆国では、致死薬注射による死刑執行の失敗などをきっかけとして、繰り返し、死刑の合憲性が争われ、制度の見直しも行われます。執行の具体的な方法や、実際の執行が公開されているので、こうした議論が可能となるのです。日本は違います。最近、死刑を宣告されて上告中の被告人が、絞首刑は、その方法によっては首が切断される危険があるとして、残虐な刑罰であると主張しました。実際に、明治時代に首が千切れた事例も確認されています。体重に比べてロープが長すぎると、首は切れてしまうのです。では、現在はどうなのか。「首が切れない」というのなら、どのような工夫をしているのか。その結果、死刑囚が受ける身体的苦痛はどうなのか。情報が制限されているために、議論が起こり、それが制度自体の議論につながるという発展性がないのです。
逆にいえば、あらゆる方法で、正確な情報を引き出し、社会的に明らかにしていくことで、状況は十分に変わりうるといえます。とりわけ重要なターゲットは政治家とマスコミです。彼らに、客観的な状況に関して正しい認識を持ってもらい、それに基づいた判断を行ってもらうことが何より重要です。そしてそのためにも、市民社会の間から、ステレオタイプの死刑論議ではなく、事実に基づいた廃止の議論を展開していくことが不可欠です。「死刑はアジアの文化なのか?」という問いに対しては、それを否定する具体的な事実を提示し、共有していかなければなりません。もちろん世論調査の数字を劇的に変えることは、容易ではありませんし、それは、廃止のための必要条件ではありません。しかし、マスコミや政治家が、決して無視はできない程度に存在感のあるメッセージを、私たちは発していかなければなりません。具体的な議論を通じて、死刑制度は、国家が、過ちを犯した人に対して、存在価値がないという烙印を押し、その命を奪うものであって、人権を尊重する民主的な社会とは相いれないものだという認識を、市民社会の幅広い層が共有する必要があります。欧州評議会の「死は正義ではない」というブックレットには、次のような下りがあります。「死刑はしばしば他の社会問題や社会的背景から切り離された別の問題として議論され、独立して評価される。これは誤解を招くものだ。死刑を廃止するか維持するかの選択は、私たちが住みたいと願う社会の種類と、その社会を支えている価値の選択でもある。死刑の廃止は人権・民主主義・法の支配の理念によって特徴づけられる一まとまりの価値の一部である。」(*)この認識を、ひとりでも多くの市民と共有すべく、私は運動をしています。