本当に日本には死刑は必要なの?
死刑制度の廃止について 平成30年1月26日 法律新聞2223号
死刑制度の廃止について
弁護士小川原優之
はじめに
法律新聞2209号から2213号にかけて5回にわたり連載された田代則春弁護士の「死刑制度について」(以下、「田代論文」という。)は、ご自身の検察官時代の経験を踏まえ「今の状況下においては、死刑制度を存続させることもやむを得ないものと考えている。」と論じられたものであり、死刑制度の廃止をめざす私とは立場が異なるものの、死刑存廃の議論を活性化させるものであって、有意義な論考である。
この田代論文には、日本弁護士連合会(日弁連)の活動に言及された箇所があり、私は日弁連「死刑廃止及び関連する刑罰制度改革実現本部」の事務局長を務めていることから、日弁連の活動について改めてご説明させていただき、田代論文について、私の意見を述べさせていただきたい。なお本稿において述べる意見は、全て私見であり、日弁連の見解ではないことをお断りしておく。また田代論文に批判的な意見を述べることとなるが、議論を深化させるためであることをご理解いただくようお願いする次第である。
1 日弁連の死刑廃止宣言
(1)日弁連は、2016年10月7日福井で開催された第59回人権擁護大会において「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」(以下「福井宣言」という。なお福井宣言や以下に引用する日弁連の意見書は、日弁連のホームページに掲載されている。)を採択した。
福井宣言は、刑罰制度全体の改革を求めるものであるが、死刑制度とその代替刑について、日本において国連犯罪防止刑事司法会議が開催される2020年までに死刑制度の廃止をめざすべきであること、死刑を廃止するに際して、死刑が科されてきたような凶悪犯罪に対する代替刑を検討すること、代替刑としては、刑の言渡し時には「仮釈放の可能性がない終身刑制度」、あるいは、現行の無期刑が仮釈放の開始時期を10年としている要件を加重し、仮釈放の開始期間を20年、25年等に延ばす「重無期刑制度」の導入を検討すること、ただし、終身刑を導入する場合も、時間の経過によって本人の更生が進んだときには、裁判所等の新たな判断による「無期刑への減刑」や恩赦等の適用による「刑の変更」を可能とする制度設計が検討されるべきであると述べている。
(2)福井宣言は、次の様な理由から、死刑の廃止を求めたものである。
「犯罪が起こったとき、我々は、これにどう向き合うべきなのか。そして、どうすれば、人は罪を悔いて、再び罪を犯さないことができるのだろうか。
悲惨な犯罪被害者・遺族のための施策は、犯罪被害者・遺族が、被害を受けたときから、必要な支援を途切れることなく受けることができるようなものでなければならず、その支援は、社会全体の責務である。また、犯罪により命が奪われた場合、失われた命は二度と戻ってこない。このような犯罪は決して許されるものではなく、遺族が厳罰を望むことは、ごく自然なことである。
一方で、生まれながらの犯罪者はおらず、犯罪者となってしまった人の多くは、家庭、経済、教育、地域等における様々な環境や差別が一因となって犯罪に至っている。そして、人は、時に人間性を失い残酷な罪を犯すことがあっても、適切な働き掛けと本人の気付きにより、罪を悔い、変わり得る存在であることも、私たちの刑事弁護の実践において、日々痛感するところである。
このように考えたとき、刑罰制度は、犯罪への応報であることにとどまらず、罪を犯した人を人間として尊重することを基本とし、その人間性の回復と、自由な社会への社会復帰と社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)の達成に資するものでなければならない。このような考え方は、再犯の防止に役立ち、社会全体の安全に資するものであって、2003年に行刑改革会議が打ち立て、政府の犯罪対策閣僚会議においても確認されている考え方である。」
「刑罰制度全体の改革を考えるに当たっては、とりわけ、死刑制度が、基本的人権の核をなす生命に対する権利(国際人権(自由権)規約第6条)を国が剥奪する制度であり、国際人権(自由権)規約委員会や国連人権理事会から廃止を十分考慮するよう求められていることに留意しなければならない。
この間、死刑制度を廃止する国は増加の一途をたどっており、2014年12月18日、第69回国連総会において、「死刑の廃止を視野に入れた死刑執行の停止」を求める決議が、117か国の賛成により採択されているところである(日本を含む38か国が反対し、34か国が棄権したものの、過去4回行われた同決議の採択で最も多くの国が賛成した。)。このように国際社会の大勢が死刑の廃止を志向しているのは、死刑判決にも誤判のおそれがあり、刑罰としての死刑にその目的である重大犯罪を抑止する効果が乏しく、死刑制度を維持すべき理由のないことが次第に認識されるようになったためである。また、2020年に世界の刑事司法改革について議論される国連犯罪防止刑事司法会議が、日本において開催されることとなった。
しかも、日本では過去に4件の死刑確定事件について再審無罪が確定し、2014年3月には袴田事件の再審開始決定がなされ、袴田氏は約48年ぶりに釈放された。死刑制度を存続させれば、死刑判決を下すか否かを人が判断する以上、えん罪による処刑を避けることができない。さらに、我が国の刑事司法制度は、長期の身体拘束・取調べや証拠開示等に致命的欠陥を抱え、えん罪の危険性は重大である。えん罪で死刑となり、執行されてしまえば、二度と取り返しがつかない。」
このような立場から、日弁連は、死刑制度の廃止をめざすべきであると宣言したのである。
なお国連犯罪防止刑事司法会議(コングレス)とは、犯罪防止・刑事司法分野における国連最大の国際会議であり、各国の司法大臣,検事総長等ハイレベルの各国政府代表,国際機関,NGO関係者等が参加し、犯罪防止・刑事司法分野の対策や国際協力の在り方について検討し,政治宣言を採択するものである。
1955年以降,5年ごとに開催されており、2020年に日本で開催されることとなっている。日本では1970年に京都で開催されてから50年ぶりであり、「法務省としては,首席代表を務める大野検事総長が,法の支配や国際協力の重要性について我が国の取り組み等を紹介しつつ説明し,今後,これらを更に推進していくこと,そして,その結実として,2020年の第14回コングレスの日本開催を提案すること等を内容としたスピーチ」を行っており(法務省ホームページ「第13回コングレス」)、法務省は、「この50年の我が国のたゆまぬ努力の結実としての国家の成熟や法の支配の浸透を是非世界中の方々に体感していただきたいと考えております。また,国民の皆様にも,再犯防止や安全・安心な社会の実現,そしてこれらを支える法遵守の文化について考えていただく機会となると考えております。」と述べている(法務省ホームページ「第14回コングレスの開催地について」)。
また2020年には日本でオリンピック・パラリンピックの開催も予定されており、世界中から日本への注目が集まる2020年までに、福井宣言は、死刑制度の廃止をめざすべきであるとしたのである。
2 弁護士会としての活動の意義
(1)福井宣言については、強制加入団体である弁護士会として、死刑制度を廃止すべきであるとの宣言を行うことは、弁護士会会員の思想・良心の自由に対する重大な侵害となり得るのではないかとの意見が出された。
全国各地に設立されている弁護士会(単位会)の数は52会あり、登録している弁護士数は、2017年11月1日現在、38,843名であるが、弁護士となる資格を有する者は、弁護士会及び日弁連に登録しなければならず、強制加入団体であることから、このような問題が提起されたのである。
しかし、弁護士法第1条は「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」、「弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない。」と定めている。そして、その弁護士の監督等にあたる日弁連が団体として基本的人権を擁護し、法律制度の改善のために、宣言を行うことは、当然できると考えられる。
その決議内容が個々の会員の意見と一致していないとしても、宣言によって個々の会員が宣言に反対する意見表明ができなくなるわけではないのである。このような立場から、福井宣言はなされものであり、私も、何ら問題はないと考えている。福井宣言は、人権擁護団体としての弁護士会の当然の活動なのである。
(2)実は、この点については、既に判例があり、日弁連が、ある法案について、国会提出に反対する決議をしたところ、日弁連の決議に反対する会員が日弁連を訴えた事例である。原告とは、訴えを起こした会員であり、被告とは日弁連のことである。
「被告において、本件法律案の国会提出に反対するという団体としての一定の意見を表明する決議がされたからといって、当然に会員個々人がすべて右意見を遵守し、これと異なる意見を表明し活動することができなくなるという趣旨ないし効力までを有すると解することはできないというべきであるし、・・・これまで本件総会決議を遵守しないことを理由として会員に対し懲戒が問礙されたこともなかったこと、被告は、本件訴訟において、本件総会決議は会員個人の活動や意見を拘束するものではない旨を述べていること、また、平成二年三月二日改正された弁護士倫理の規定には、会員の遵守すべき対象として「決議」が掲げられていないことが認められるのであって、懲戒のおそれをいう原告らの右主張は失当である。」、「結局、本件においては、被告が本件反対運動のために原告らに対して特別の費用負担を命じているわけではなく、一般会費による被告の運営費の中から予算に基づいて右運動のための費用を賄っているとしても(自分たちが拠出した会費が、このような費用として使用されることに対する不満ないし不快の気持は別として)、このことから原告らの拠出と右運動との間に具体的、個別的な関連性が存在しているということはできず、原告らが当然に右運動ないしそのよって立つ意見、立場等を支持し、これに協力していると評価される余地はないのである。したがって、被告が、一方で一般会費として原告らに資金拠出を強制し、他方で会財政から費用を支出して本件反対運動を行っているからといって、原告らに対し、その意に反して右運動のよって立つ意見、立場等についての支持の表明を強制しているに等しいということはできず、原告らの思想、良心の自由を侵害することになるものではないと解するのが相当である。」(東京地裁平成4年1月30日判決。判例時報1430号108頁、平成4年12月21日東京高裁判決で控訴棄却。)。
3 被害感情と死刑制度
(1)田代論文は、「私は現場検事であった時期、何回も現場検証等で、殺人あるいは強盗殺人現場に赴き、血の海の中で、被害者の何かを訴えているような、何とも形容しがたい目を忘れることはできない。そのせいもあってか、この種の事件については先ずは『もの言わぬ・ものが言えない』被害者本人の心情を汲みとることが肝要ではないかと考えている。被害者の立場、その気持ち、そこからくる報復感情を汲んであげるのが何よりも先決ではないかと考える。」と述べ、それを立論の前提として、死刑存置論を述べている。
しかし私は、この遺族の被害感情から、直ちに「死刑制度」存置の結論を導く事には同意できない。日弁連の福井宣言も、「犯罪により命が奪われた場合、失われた命は二度と戻ってこない。このような犯罪は決して許されるものではなく、遺族が厳罰を望むことは、ごく自然なことである。」と述べているが、遺族の自然な被害感情に思いを致したとしても、なお死刑制度の廃止をめざすべきであるとしたのである。
(2) そもそも実際に起こる多数の殺人事件の加害者のうち、死刑判決が確定する例はごく少数である。例えば、警察庁「犯罪情勢」によれば、殺人事件の認知件数(未遂を含む)は、2010年(1068件)、 2011年(1052件)、2012年(1032件)、2013年(938件)、2014年(1054件)、2015年(933件)、2016年(895件)であるが、事件発覚から刑事裁判確定までの時間差を考慮しても、確定者数は、2010年(9件)、 2011年(23件)、2012年(9件)、2013年(8件)、2014年(6件)、2015年(4件)、2016年(3件)である(アムネスティ・インターナショナル日本の調査)。
圧倒的に多くの殺人事件の被害者や遺族は、加害者が死刑になっていないのであって、このことは死刑制度が、多くの被害者や遺族にとって、「報復感情を汲んであげる」ものになっていないことを意味している(「死刑は滅多に科されない」ことについては、田鎖麻衣子弁護士の「”死刑は被害者のため”なのか」菊田幸一監訳「『被害者問題』からみた死刑」(日本評論社)32頁に詳しい。)。
(3)また裁判官が実務において参考にしている司法研修所編「裁判員裁判における量刑評議の在り方について」(法曹会)は、「死刑が相当かどうかの判断にあたっては・・多数の先例の中で比較して初めて対象としている事件の重大さの程度が評価できるということがいえるであろう。また、この先例の集積によって、社会全体が死刑の言い渡される事件についてのある程度の認識を共有し、それによって犯罪者にとっての抑止力となり、また社会にとっては安心感のよりどころとなることが期待されるということも、一応は先例を尊重すべきことの根拠の一つと考えることができるであろう。」と述べており(106頁)、裁判の実務が先例尊重の立場にあることは明らかである。このような立場だからこそ、例えば白昼繁華街において無差別に2名の通行人を包丁で突き刺す等して殺害した殺人等被告事件(心斎橋通り魔殺人事件)について、大阪高等裁判所は、平成29年3月9日、裁判員裁判による原審の死刑判決について、死刑に処することがやむを得ないとはいえないとして、原判決を破棄し、無期懲役刑を言い渡しているのであり、このような死刑判決の破棄はすでに5件にのぼっている。
この判例の傾向が改まるとは考えられず、死刑制度が、多くの被害者や遺族にとって、「報復感情を汲んであげる」ものになっていないことは、今後も変わることはないと考えられる。
(4)個々の事件を担当する検察官や、被害者支援弁護士が、「被害者の立場、その気持ち、そこからくる報復感情を汲んであげるのが何よりも先決」だと考えるとしても、実際の法廷において、被害者の「報復感情」だけで判決が決まらないことは、十分承知しているのであり、被害者や遺族に対しても正確に伝えたうえで、その慰謝に努力せざるを得ないはずである。
ましてや、死刑存廃論は、個々の事件の求刑や被害者支援ではなく、刑罰制度としての「死刑制度」について論ずべきものであり、制度の有用性や弊害について冷静に議論すべきものである。
福井宣言が述べるように、「日本では過去に4件の死刑確定事件について再審無罪が確定し、2014年3月には袴田事件の再審開始決定がなされ、袴田氏は約48年ぶりに釈放された。死刑制度を存続させれば、死刑判決を下すか否かを人が判断する以上、えん罪による処刑を避けることができない。さらに、我が国の刑事司法制度は、長期の身体拘束・取調べや証拠開示等に致命的欠陥を抱え、えん罪の危険性は重大である。えん罪で死刑となり、執行されてしまえば、二度と取り返しがつかない。」のである。しかも、えん罪の危険性は、過去の話ではなく、近時の、無期刑の確定していた足利事件や布川事件についても、無実であることが明らかとなって再審開始無罪判決が言い渡されており、有期刑を含めれば、最近も再審開始が言い渡されている。
われわれ法律家としては、えん罪・誤判が起こることを前提に「制度」を検討すべきなのである。
被害者や遺族の報復感情や被害感情を慰謝することは、死刑を求めることだけではないはずである。
4 世論調査と情報公開
(1)田代論文は、内閣府の実施している「基本的法制度に関する世論調査」等の結果をもとに、「国民の約8割が死刑制度の存在を是認していること」を立論の根拠としているが、政府の世論調査には、以下に述べるような問題点がある。
日弁連は、2013年11月22日、「死刑制度に関する政府の世論調査に対する意見書」(以下、「日弁連意見書」という。)を発表した。これは、社会調査のデータ解析の専門家である静岡大学情報学部の山田文康教授(当時)に,死刑制度に関する政府の世論調査の問題点等の分析を依頼し、さらに日本国民の死刑に対する態度についての研究結果を発表している,オックスフォード大学犯罪学研究所研究員・ロンドン大学バークベック校犯罪政策研究所主任研究員(当時)の佐藤舞博士からも政府の世論調査の問題点等について意見を聴取し、このような専門家の分析結果を踏まえ,政府の世論調査の内容が国民の死刑制度に関する意識をより正確に把握できるものとなり,その回答結果がより客観的に評価されるよう,取りまとめたものである。
(2)この日弁連意見書は、世論調査の意義は、「死刑制度に関する国民の基本的な意識をできるだけ客観的に把握することにあるはずである」との観点から、死刑制度に関する主質問は、① 死刑は廃止すべきである、 ② どちらかと言えば、死刑は廃止すべきである、③ わからない・一概に言えない、 ④ どちらかと言えば、死刑は残すべきである、 ⑤ 死刑は残すべきである
という、価値中立的な選択肢を用いるべきであると提言している。
しかし、2014年に政府(内閣府)の実施した「基本的法制度に関する世論調査」(以下、2014年世論調査という)は、① 死刑は廃止すべきである ②死刑もやむを得ない ③ わからない・一概にいえない であり、「死刑もやむを得ない」という選びやすい選択肢を用いており、価値中立的な選択肢とはいえず、「死刑もやむを得ない」へと世論を誘導するものである。
このような選択肢の問題点については、釜井景介弁護士の「死刑制度存廃論の状況―平成26年度政府世論調査結果を参考に」(判例時報2264号。3頁以下)に詳しい分析が掲載されている。
しかし、このような問題点はあるものの、私は2014年世論調査の結果には、今後の死刑廃止をめざす活動に活かすべき内容が多く含まれていると考える。
そこでまず、この世論調査の結果の概要を少し詳しく紹介し、次に日本にも死刑廃止派が思いのほか多くいることについて述べる。
(3)2014年世論調査の結果は、概要以下の通りである。
①「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか。」(Q2)
死刑は廃止すべきである 9.7%
死刑もやむを得ない 80.3%
わからない・一概にいえない 9.9%
②「死刑もやむを得ない」と答えた方に「将来も死刑を廃止しない方がよいと思いますか、それとも、状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよいと思いますか。」(SQb2)
将来も死刑を廃止しない 57.5%
状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい 40.5%
わからない 2.0%
(4)前述したように、そもそも死刑制度に関する政府の世論調査の意義は、死刑制度に関する国民の基本的な意識をできるだけ客観的に把握し、それを今後の政府の政策に反映させることにあるはずである。だとすると、前述した調査項目①(世論調査項目Q2)だけから「死刑制度を容認80% 」とする議論(以下、「死刑制度容認80%論」という)は、死刑制度に関する国民の基本的な意識をできるだけ客観的に把握したものになっていない。
せっかく世論調査が、死刑容認派に対し将来の死刑廃止について前述した調査項目②(世論調査項目SQb2)の質問をしているのに、それを全く無視しているからである。
(5)調査項目②(世論調査項目SQb2)を含めて考えるならば、死刑制度に関する国民の基本的な意識はどのようなものになるのか。
「死刑もやむを得ない」(全体の80.3%)のうち「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」(40.5%)を全体の割合に置き直してみるには、全体80.3%に40.5%を掛け合わせればよいのであり、全体80.3%×40.5%=全体の32.5%になる。
つまり将来は死刑を廃止してもよいという意見が、全体の32.5%いるわけである。これに「死刑は廃止すべきである」(全体の9.7%)を加えると、全体の32.5%+全体の9.7%=全体の42.2%となる。現在ないし将来死刑廃止派は、全体の42.2%いるのである。
他方、「将来も死刑を廃止しない」(57.5%)は全体の80.3%×57.5%=全体の46.1%であるから、将来も死刑存置派は全体の46.1%になる。
このように見てくると、将来も死刑存置派46.1% 、現在ないし将来死刑廃止派42.2%であるから、その差はわずか4%しかない。
私は、この世論調査によって示されている死刑制度に関する国民の基本的な意識は、日本も「将来」は死刑廃止があり得ることを示すものであり、この結果は極めて重要であると考える。
したがって、死刑制度容認80%論は、あたかも日本国民は将来も死刑を求め続けているとミスリーディング(誤導)するものであり、死刑制度を維持する働きをしている。
残念ながらマスコミでは、私の知る限り、この点は十分には報道されていない。単純な「死刑制度を容認80%」報道は、日本国民は将来も死刑を求め続けているとミスリーディングするものであり、マスコミの責任は、極めて重大である。
田代論文も、「国民の約8割が死刑制度の存在を是認していること」を立論の根拠としており、死刑制度容認80%論に基づくものであるが、前述したような世論調査の分析を全くしておらず、前提そのものに疑問があると言わざるをえないのである。
(6)さらに世論調査の対象となっている国民に対して、死刑についての情報が公開されていないことが極めて重大な問題である。とくに絞首刑がどのように執行されるのかは全く明らかにされていない。マスコミ関係者も、死刑の執行に立ち会うことはできず、絞首刑が、現在の日本国民の国民感情にてらし憲法36条の禁止する残虐な刑罰に該当するかどうか判断するための情報が、国民には全く明らかにされていない(情報公開により公開される死刑執行に関する文書の重要な部分が黒塗りされていることについては、共同通信佐藤大介「死刑に直面する人たち」(岩波書店)41頁以下に詳しい)。私の知っている限り、死刑執行に立ちあった裁判官はおらず、その裁判官が、絞首刑は憲法の禁止する残虐な刑罰にはあたらないと判断しているのである。私は、少なくともマスコミ関係者は、アメリカと同様に、死刑執行の現場に立ち会えるべきであると考える。明治時代の初めには、新聞記者が死刑執行の現場に立ち会っており、明治15年12月に執行された男性死刑確定者については、「処刑の時、どうしたことかロープが途中で切れ、・・ばったりと地面に落ちて苦しんだ。看守は直ちにこれを引き上げ、ロープを取り替え、再び首を締めてやっと死に至らしめた。」とか、明治16年7月に執行された女性の死刑確定者については、「死刑の執行で、吊り下がった瞬間に首が半分ほどちぎれて血があたりにほとばしった。5分間ほどで絶命」と報道されている(中川智正弁護団、ヴァルテル・ラブル編著「絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?」(現代人文社)8頁)。現在の日本における死刑執行方法は、基本的に明治時代の絞首刑を踏襲しているのであり、同様の残虐な執行のおそれがある。
死刑についての世論調査は、国民に対して十分な情報を公開した上で行なわれなければならない。これまで政府の世論調査は5年毎に行なわれており、次回は2019年に行われるものと予想されるのであって、それまでに情報が公開されなければならないのである。
5 結語
以上、田代論文について私見を述べさせていただいたが、田代論文は多くの論点について述べられており、他方、本稿はごく一部について述べるものにすぎない。他の論点についても、いずれ別の機会に述べさせていただきたいと思うが、何れにしても田代論文や本稿は、日本における死刑制度存廃の議論を活性化させるものであり、今後も大いになされるべきである。
日弁連の死刑廃止宣言とその活動について、ご理解いただければ幸いである。
以上